俗なことは嫌いと俗っぽく言ってみる
思っていることを活字にすることでなにかが変わるんじゃないかと期待を込めて書いてみたり時にただの愚痴だったりするブログ。
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「原発の是非を問う」の是非を問う。
久しぶりの更新になってしまいました。
ここんとこ、もう忙しくて忙しくて・・・常時胃痛がします(苦笑)寝不足で歩いていると、周囲の方向感覚が鈍って、御茶ノ水駅降りて明大向かう途中のすごい歩道の人ごみにも関わらず頑なにお姉さんがさしている日傘の先に目が刺さりそうで怖いです。(実際はメガネなんで大丈夫だけど。)

ですが久しぶりに書いてみたくなりました。「原発の是非を問う」という問いに対する是非について。

いきなり原発賛成?反対?なんて、例えば国民投票で聞いたって、ナンセンスだと思う。
なぜならば、それぞれの想定しているフェーズが違うと思うから。


例えばある人は、将来の自然環境を考えて、放射性物質という危険な要因を持つ原発には反対という。

またある人は、できれば原発はないに越したことはないと思いつつも、今原発が止まって電力不足になったら工場の稼動ができなくて収入が減り、目の前の子どもを十分に養えなくなるから、賛成という。

これらの意見は、想定しているスパンが違う。


「長期的にみて、自分の現在の利害とは関係なしに、原発はどう思いますか?」という問なら、後者の人も反対票に回るだろう。

だが「現実的に、正直、今原発なくなったら困りますか?」という問いも、なくてはならない。将来の事を考えて原発反対にまわって、多少節電やらの不自由はあっても十分生活できる人がいる一方で、原発がなくなったら「今」の生活が立ち行かなくなる人もいるのだ。


長期的展望の確立と、現状の認識、その両方をするのが、何事でも物事を進める上で基本だろう。

例えば、将来的には原発廃止ということで国民の合意がとれたのなら、徐々にエネルギーシフトをしてゆけばよい。
一方で、願わくば原発廃止したいけど現状で廃止されたら生活困ります、という人の存在が明らかになれば、そういった人へ補助金を出すなどの経過措置も考えられる。


こういった長期的展望と現状における意見を、ごっちゃにして議論をするから、わけがわからなくなるのだ。

特に原発問題など、様々な利害がからむ問題は、そのあたりをごっちゃにせず、冷静に議論のフェーズを意識しながら、丁寧に議論を積み上げてゆきたい。

* *************
先日ある先生がおもしろいこと指摘をされた。

「原発が1基作られると、将来にわたってその原発関連の雇用も生み出すし、一方で事故・環境汚染のリスクも生む。つまり今の選択が将来に影響を及ぼす。しかし将来に生きる子どもには、投票権がなく、意見が反映されないのはおかしいのではないか。」と。

同様のことを、アメリカの政治学者、ポール・ドメインという方が言っているそうだ。
「少子高齢化社会において、若者の1票と高齢者の1票が同じというのはおかしい。」「投票権を、親あるいは親になる可能性のある人に多く与える(ドメイン選挙法)」など。

具体的には、親が子どもに代わって、多めに投票する権利を与えようといったアイディア。

(参考)http://www.nira.or.jp/pdf/taidan62.pdf


この考え方には、2つの前提があると思う。

1つは、親や若者世代は将来についてより深刻に考えるが、高齢者は将来に無関心になりがちという前提。

もう1つは、先ほど書いた「長期的には原発どう思う?」といったような、長期的判断をする場合の選挙、もしくは「選挙において人は、短期的利害のみならず長期的に問題をとらえ判断すべき」という前提である。


実際の運用では、親に票を多く委ねることで解決するのか(全ての親、若者がきちんと長期的に物事を考えているわけではないし、高齢者が若者の将来を案じて長期的に物事を考えていないわけでもないと思うので)、具体的に何票与えるのか、悪用をどうするのかなど問題はあろうものの、長期的判断を迫る際の投票方法としては、理にかなったおもしろい考え方だなと感じた。


ただこの話を聞いて落とし穴だと思ったのは、繰り返しになるが、将来の決定をすることによって現状が変わる場合、「今」の生活が脅かされる人の存在である。

物事を長期的に考える人の方が「偉い」し「すごい」といった感覚を持ってしまう一般庶民としては、「長期的思考をする際のすごい工夫を施したおもしろい選挙法」にはうっかり全面的に賛成してしまいそうだが、長期的に物事を考える時間的余裕と思考能力、また「きっと自分は10年先も生きているだろう」という長期的展望を持てる人は、実は社会の全員ではない。

社会には、毎日朝から晩まで働くので精一杯で将来についてまで考える余裕がない人、家庭が貧しく十分な教育を受けられず、選挙という民主主義の舞台に立つ「市民」として長期的スパンで社会を考える力を養うチャンスを逃した人、何らかの絶望感を抱えていて将来の展望を持てない人も、いるのだ。

長期の決定をして、それに向かって動き出す際には、このように長期の決定に十分に参加できなかった人、経過措置が必要な人などに、十分に配慮をしなくてはならない。
この配慮すべき現実を見極めるために、長期的決定への問だけでなく、短期的な現状への問いもあわせて行ってほしい。


今思い出したが、身近な例では、地デジへの移行もそうだった。

地デジにした方が、技術的に将来によいとわかっていても、それを今押し付けられると困る人もいる。例えば、何らかの子どもが知的障害を抱えていて、毎日○○の番組を見ないと精神不安定になってしまうからテレビは不可欠だけれど、貧困でテレビ買い換えられません、といった事情。(これは私の思いつきの例ですが、実際あるかもですよね。)

経過措置として、何年か移行期間をとり、地デジ設置に関してアドバイザーやらサポートコールやらも整備した。それで十分だったのかは、地デジ難民の実情をよく調べてみないとわからないのでここでは詳しく触れない。少なくとも言えるのは、地デジへの移行という長期的計画と、実際の経過措置に関してという、長期・短期という2フェーズでの議論が必要ということだ。



長々と書いたが、今私が言いたいことは、原発問題に関しても、社会保障の充実と増税に関しても、過去においては郵政民営化に関しても(民営化か否かという2大争点で雑に選挙が行われた)、とにかく何にしても、議論の仕方が雑じゃないかということである。

きちんとフェーズを整理して、議論していかないと、長期展望を語る人と短期利害で議論する人の、不毛な平行線の議論が永遠続く気がする。


※ 最後めっちゃムダ話ですが、長期的に考えても原発賛成ですという人を頭から否定しているわけではないです。原発前提の経済成長が今後とも必要だという考えなども、一理あります。(現状の私の知識では、個人的にはその考えに賛成しかねますが、「一理」は認めます。)ただし原発前提の経済成長のよい側面だけでなく悪い側面も知っている人とでないと建設的な議論ができないと思っていますがね。そういう私も原発前提の経済成長がなくなった場合の負の側面が認識不足なんで勉強しなきゃなんですが。


建設的な議論を重ね、熟議をした後にやっと、どちらの将来を選択するかの問題が出てきます。

例えば他国との競争を意識して、それらに勝つことを優先するのか、国内のコミュニティ崩壊などの問題解決を重視して、他国との競争をどうにかやり過ごしそこそこの経済成長でやっていける道を探るのか。これらのことは、熟議をして、論点が整理された後の、市民の選択に委ねられます。

とりいそぎ、今私ができることとして、長期の議論を建設的に実施するために、まずできるだけ多くの人が、物事を深く多面的に見られるようにならないといけないなと思いますので、私はまずそこからちょっとづーつさりげなーく運動を繰り広げているんですがね。まあ理想的な議論を掲げるのはいいものの、現実をみたらどれくらいの水準でその議論が達成できるのか、絶望感漂う部分もありますが、ちょっとづつやっていくしかないですね。

※ あーあと長期的な持続可能性なんか考えず今を楽しむのが一番!という意見も、まぁこれも一理あるかもしれません。「いっそ人間なんか滅んだほうが他の動物のためだ!いっぺん自然と共に人間滅んでも、自然はウン十億年後に再生するし!」的な意見も、あるかもしれませんからね。「環境は守るべき!」といわれてしまうと、まあそうかなと思ってしまいがちですが、そうやって鵜呑みにするだけでなく、現在の私達の生活がいかに環境に支えられているのか、今環境汚染をどのような事態が引き起こされるのかを、きちんきちんと認識した上で、自分の意見を決定したいものです。
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