俗なことは嫌いと俗っぽく言ってみる
思っていることを活字にすることでなにかが変わるんじゃないかと期待を込めて書いてみたり時にただの愚痴だったりするブログ。
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3.11からいちねんとデモのこと
気づいたら最近あんまり更新してないな。
けっこう、ツイッターやフェイスブックにちょこちょこ書いてるので、そっちもぜひ見てくださいね。

最近はふいにしんどくなってしまって。「動いて経験する」っていう日々だと、わりとブログに書きたくなりますが、

「読んだり調べたりして、それをまとめる」作業をしていると、まとめる作業自体を既に日々やっていることになるので、
またブログでアウトプットするのがしんどくなるんですね。

なので別に、無理してないので、超不定期ペースの更新なんですけど。あーそうかーと自分のブログのペースを振り返って思いました。

そういや、3月11日、デモ行ったんですよ。反原発のやつ。日比谷公園出発のやつ。
その日は別のでっかいイベントもやっていて、お店も沢山でていて、とても賑やかでした。



といっても、やっぱり人々の色んな想いがつまったイベントだったので、(中には完全商業目的のお店もあったかもしれないけど)丁寧な時間が流れているにぎやかさでした。


別に、3月11日は、特別に何かしてすごそうとか思ってなかったんですけどね、たまたま知って、「あ、行きたいなーちょうどその日都内にいるし。」と思って行きました。
天気もよくって、気持ちよかったです。

なんで、「行きたいな―」って思ったのか。
振り返ると、①「3月11日」から一年という意味での私の気持ちと、②デモってどんな感じだ?を知りたい気持ちが、あったんだろうなと思います。


①「3月11日」からいちねん。

これは、どっかに書いておきたいなと思って、書きます。

でも特別に、「今一度、心に刻まねばならない」とかなんとか、強く思っていたわけではありません。

正直、やっぱり私も多くの人と同様、震災のことは徐々に自分から遠いできごとになっていたんですね。


でもこのまま、さらっと流してしまうには、やっぱりショックな出来事だったと思う。いわゆる「被災」された方々の事を想って、という以前に、まず自分の事として。


去年の3月11日、あるNPO事務所でボランティアで仕事してる最中に地震があって、まじ死ぬかと思って、電車止まって帰れなくなって、
歩いて帰ろうとしている人の行列の異様な雰囲気を受け止めて、なんやかやと仕事してみたりカラッポのコンビニに買い出し行ってスタッフ分のらーめん作ってみたり、
結局あるスタッフさんのお家に泊めてもらって、翌日早朝に失礼させてもらって、朝からバイトで、

自分のシフトの時間前だったけど様子見てみたら、他店のクルーが死にそうな顔で働いていたのでそのまま仕事に入って、
殺気立つお客さんの対応して、やっと帰って親の顔を見て、原発の状況とかようやく把握して。

それ以降、4月半ばくらいまで、一体自分は何をしていたのか、よくわからない。
大して、直接誰かに役立つ行動をしていた訳ではない。自分なりに何か考えていて、動いていて、自分で勝手にいっぱいいっぱいになって、疲れ果ててたと思う。
そうこうしているうちに、一か月遅れで大学院が始まった。

大学院での生活も、何もかも初めてで今から思うとだいぶ迷走していた。
震災関係で、色々気持ちが揺れて、どうしたらいいのかわからなくなったりもしてたし。。
悲しくなる報道も多くて、感情の振れも通常より大きかったかも。

それなりに自分、頑張ってたんだな。。


よくわかんないけど、「被災者の方の気持ちを思って…」とか、「今回の被害・事故を二度と起こさないように…」とか、そんな殊勝なこと、まぁ確かにちょっとは思うけど、


それ以前に、先ずは自分の中の出来事として、ふっと振り返って、心に寝かしつけておきたかった。
あくまで「ふっと」ね。あまり強く想いすぎるのは、ちょっと重かったから。


そのために、今年の3月11日、大人数の中に入り込んで、集団の中でなんとなく黙とうできるのは、自分にとってちょうどよかった。

一人で家にいたら、うっかり強く想いすぎてしまうか、心落ち着かせたかったのに雑念が入ってしまったであろうから。
逆に、「今、震災を振り返る」的なイベントは、ちょっと重すぎちゃって、気持ちが動かなかったのかな。


・・・以上、自己分析。
報道や声の大きな人によって、一つにまとめられがちな感情だけど、ほんとは1人1人ちがう。
少なくとも私は、私なりの気持ちをこういった場で書けて、よかった。


②デモについて。
…色々感じたけど、ごく簡単に記しておきます。

デモに参加したことは初めてじゃないけど、これだけの規模は初めてだったな。

「反原発」と、心から思い、心の底から叫んでいる人達に囲まれて、みんなすごいなぁと思った。
(でも3月11日以前に、反原発のデモに参加したことある人とたまたま話したら、以前はほんと、小規模だったんだって。)


私はここまで意思表示できなかった。
「原発は、できればなくなってほしいけど、でも色々事情もあろうから、まずはどうしたらいいのか~~」うんちゃらかんちゃら。

まぁ、私は私のスタンスでやっていくことには変わらないんですけど、
でも参加して、勇気が出ましたね。


私が、もやっと思っていたことについて、
ああ、みんなもそう思ってるんだ!って思える。私がそんなに強くは言えなかった事について、思いっきり叫んじゃってる人を目の当たりにすると、「あ、そうだよね!」って。

大衆迎合なのかもしれんけど、結局そんなもんよ。

日々、孤立奮闘しているんだから、こういう時ぐらい集団でいさせてよ。


フェイスブックでは書いたけど、先日参加した「若年ホームレス支援全国ネットワーク会議」も、そうだった。

ネットワークや集まりは、情報交換の場であったり社会により強く訴えかける場であったりするのと同時に、

日々孤立奮闘でがんばる人を、勇気づける場でもある。


目の前の事を変えるのには、すごくすごくエネルギーがいる。
特にそれが、社会の流れに組み込まれちゃっている場合には。

だからたまには一緒にならないとやってけない、と正直思う。

デモは、確かに、社会に意思表示をする重要な回路である。(もうちょっと他にも回路があってもいいと思うけど。)

そんなのやって意味あるの?って、疑問に思う人や、中には「時間の無駄」とか「お祭りでやってるだけだろ」って、批判する人もいるだろう。

しかしその「意味」とやら、どの物差しで測るのか、まず確認したい。


確かに、一時期某省でバイトしている最中に、外でデモがあって、すごいうるさかったんだけど、
中の職員は何食わぬ顔で仕事をしていた。
彼らだって、仕事でやっていて、どうすることもできないんだろう。

今回も、ある省の建物の前で重点的に声をあげたりもしたけど、実際直接それで何かが変わるわけじゃない。


でも、この動きがきちんと報道されれば、「私も実はそう思ってた」という人の輪が広がるかもしれない。
デモ参加者もまた元気になって、各方面で活動再開できるようになる。


ま、確かにこういう動き、ノリだけでやると、危険な方向にいく可能性がないとも言えない。扱う問題によっては。
この危険を回避するには、きちんと歴史を知る人の声や、個々人の倫理感に任せるしかないのだろうけど。

この点の回答は私は持ち合わせていないが、ひとまず思ったことはこんな感じでした。


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