俗なことは嫌いと俗っぽく言ってみる
思っていることを活字にすることでなにかが変わるんじゃないかと期待を込めて書いてみたり時にただの愚痴だったりするブログ。
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とりあえずとりあえず(120407)
とりあえずの近況を書いてみる。

松尾匡さんの『「はだかの王様」の経済学』は、かなりおもしろかった。
(これは一般向けで非常に読みやすいので、経済専門じゃない人もおすすめ。)
松尾さんの考えていることは、かーなり私が思い描いていることにそうだ。この方のHPや他の著作も読んだけど、紙面上での主張も合うし、おそらく生き方のスタンスも似ているのではと思う。


研究上の方向性としては、マルクス経済学もがっちり、近代的な理論経済学もがっちりできつつ、具体的にこれから社会を変えてゆくために草の根からの市民の動きに注目している。実際に、『市民参加のまちづくり』という本も、シリーズで共著で出されている。この理論的な筋道は、非常に私が考えていたことに近い(っていうと、偉そうだけど。)。いやぁ、ありがたい。先輩がもうここまで仕事をしてくれている。偶然知った方なのだけれど、ちょっと光が見えた。



(人によっては「自分がやろうと思っていた事が先にやられてた!ショック!」となる場合もあるだろうけど、私はまぁ全然その域に達していないし、自分一人でできるもんじゃ到底ないし、誰かがやってくれてるなら私は別のことをしてもいいという、フレキシブルな人間なので、問題なし。むしろ心強し。)

生き方としては、例えば学生時代、学生運動の名残の残る大学内で活動していらしたらしいという点や、HP等がやたら丁寧で、どこかの講演レジュメにも自分の宣伝がばっちり書いてある点、なんだか「似てるなぁ」と(笑)。
宣伝に力を入れているというのは、学者的には色々言われるのかもしれないけど、具体的に自分の考えを広めて、何かしらアクションを起こしたいという表れだと思うのです。私もしつこく、自分を宣伝した時期がありました。今は自分模索中なのであんまりやってないですけど。

この著書の、マルクスの疎外論の解釈や、「近代経済学の最先端のゲーム理論を突き詰めるとマル経にゆくんです!」という解釈が、まっとうに筋道立てられた考え方なのか突飛な解釈なのかは、私は詳しくわからない。一般向けにかかれた著作は、かなりわかりやすく、ざっくりと書かれているので、専門家から見たらつっこみどころ満載なのかもしれない。

でも、もちろん専門書もがっつり書かれているし、お師匠さんや一緒に共著出されてる方も私的にすごいとおもってる人だし(?!)、なんとなくだけど今のところ信頼している。話の筋道に胡散臭さは感じじてない。今関係しそうな文献も見ているところで、また違う見方も出てきてすごいおもしろいけど、今のところ真っこうから対立する意見には出会っていない。(←あったけど、そっちの方が胡散臭そうだったり。)まぁ、学問上の議論よりも、人として信頼できそうってのが先に来てしまって、先入観アリアリなのかもしれないけど。


というか、ある程度筋道の立った解釈であれば、それ以上つっこんで議論してゆくことには私はあまり関心がない。それよりむしろ、具体的に現実にアクションを起こす方法に興味がいってしまう(←とはいえ、研究としてやるからにはそれなりに根拠のある思考法で)。これは、逃げなのだろうか?どこまでが逃げでどこからが線引きすべきところなのか?これは結構最近の悩み。


そんなわけで、マルクスの疎外論、疎外って何?に、興味持ち中。
そのものズバリはタイトルで『マルクスの疎外論 その適切な理解のために』(岩淵慶一)を今読んでるけど、まー今まで「有名どころ??」と思っていた人達をばっさばっさ切ってゆく様子は、単純に楽しい。何が真実かは、自分でマルクスを読まない限りつかめないけれど、おかげで世の中ウソだらけ(かもしれない)、という疑いの心(もとい、批判的に読む事)は、再確認できましたよ。もちろん予備知識を入れる参考にもなっています。


あと、息抜きというか長らく自分の中で宿題にしてた、重田園江『ミシェル・フーコー 近代を裏から読む』(ちくま新書、2011)を、やっと読み始めました。重田さんて、ウチの研究科の先生なんです。近いがゆえに、なんとなく近づきがたくて、何度も手に取りつつ読んでかなったの(笑)なんか、はまってしまったら怖くて(笑)

でも読み始めたらおもしろくて、とーまーらーなーいーーーという感じです。修論関係でちょっとやばいんだけどそっちのけで(笑)
フーコーって、ごめんなさい、全然知らなかったんですけど、
ひとまずこの本は、著者の語り口が、非常に読者に近い。するする頭に入る。
まるで、少し前に遠くへ行ってしまった、困ったちゃんだった旦那のことを、問わず語りに知らない人にもらしている感じ。(え、わかりにくいかぁ笑)

でも、フーコーのエッセンスは、確実に迫ってくる感じがする(まだ半分しか読んでないけど)。ああ、そういう風に考える人だったんだね、おもしろい人だったんですね。という感覚と、もちろん知的に「はっ」とさせられる部分と。

「価値を変えろ!」(p.14)
「必要なのはむしろ、経済/文化/政治といった既存のカテゴリー、既知の分類そのものに疑問を付すことなのだ」(p.53)

フーコーが、なんだか悶々と、今まで人がさらりと流していて見えていなかった部分をどうにか認識して、伝えようと、もがいている様子が伝わってくる。
そしてそれを受け止めようとする著者と。

政治思想は、よくわからないし、勉強したいのだがそこまで手が回っていない。(自分の非力さが悔しい。)
でもこのもがき感、あたり前だとしていることを疑ってかかる感覚だけでも、汲みとって大切にしておきたい。私も既存の枠におさまってふぅやれやれ一安心じゃなくて、常に疑ってかかりたい。もがいて、苦しくてもいいから、何か大切なコトを逃さずつかみたい。



最後に暴言を吐く。

「早くから○○(←有名な哲学者とか経済学者とか)の著作に親しんできた…」とかって、わざわざ本の巻末に書く人がいるけど、こういった記述には自己紹介以上の価値は特にないだろう。

これを鼻にかけて書いている人は、好きじゃない。
読み手もこれを読んで「ああ、すごい人なんだ」といたずらにありがたがる必要はない。

早くから○○に親しんだ人は、せっかくなので○○に詳しい人として、社会に対して自分の役割を果たせばいい。それだけ。
○○についてよく知らない普通の人は、詳しい人に教えてもらえばいい、それだけ。

逆に幼いころから○○ばかり読んでいた人は、野山を駆け巡って遊んだ経験が薄くいかもしれないし、いじめられてさみしい思いをすることもなかったかもしれないし、自分のやるべきことがわからなくてもんもんとした時間を過ごすことが少なかったかもしれないし、不良の世界を知ることができなかったかもしれないのだ。

すると、野山がいかに人間の生活を潤すかについてや、いじめられることによるさみしさ・苦痛や、若者特有の悶々とした悩みから脱却する手立てや、不良の世界特有の文化やそこに集う若者たちの独特の感情や境遇については、想像力が限られるかもしれない。

何が言いたいって、まぁ、人それぞれ自分の生き方があって、得意な事と不得意な事があって、それぞれの経験もちがって、
どれがすごいとかじゃなくて、それらをイイ感じに組み合わせることこそが大事だろうと、思っただけです。

私は私なりにやるもん。っていう、それだけです。すんません。

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