俗なことは嫌いと俗っぽく言ってみる
思っていることを活字にすることでなにかが変わるんじゃないかと期待を込めて書いてみたり時にただの愚痴だったりするブログ。
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モース『贈与論』
マルセル・モース『贈与論』

単に、「昔の○○島では、貝でできたネックレスの、こんなしくみの贈与のしくみがあってね~」

という、話ではナイ。

確かに、各地域の詳細な贈与ネットワークの記述が長くって、運悪くそこだけちらっと読んだ人は、そう思うかもしれませんが。。。

でも、ちょこちょこ、訴えてくる。

そして第4章で、たたみかける感じです。

モースがこれを書いた1920年代の、経済状況もしくは経済学の状況に対する、切なる訴えが聞こえてくる気がしました。
社会って、人々の関係って、そんなもんかい?・・・つまり、功利とか、個人の欲望とかだけで語れるもんかい?と。



贈与や返礼の習慣、贈るモノにも魂があるとの考え。
限られた資源の分配と、権力構造や共同体間のバランスの維持を、様々な交換を通して複雑に均衡を保つ、社会。(市場の均衡じゃなく、社会の均衡ってのも、あるように感じました。)

経済も風習も文化も宗教も政治も、ごちゃまぜの状態で成立している社会を、そのまま写し取る。

すると、経済学が捨象してしまった、人々の関係性の中で成り立つほんとうの経済の形が、おぼろげに見えてくる。

(※ちなみにモースは、この頃の社会学が社会の現象を細かく切り取り過ぎて、詳細に検討するあまり、全体像を見失っている点もしてきしていましたが、共感です。)

*****
一つ興味深かったこと。
昔の首長は、(神からいただいた)モノを分配することによって、権力を示していた。
モノは単なるモノではなく、権力の媒介・象徴であり、人々は従った。

…しかしこれは、今も同じではないか? モースは指摘する。
今も私たちは、モノにひれ伏している。

モノを得るのは、何の為だ? 必ずしも、純粋に生きる為、ではないモノ達、を手に入れようと思うのはなぜか。

*******

さてこの次は、
読みかけだった重田園江先生の『連帯の哲学Ⅰ フランス社会連帯主義』を読みます。

ここで再び、モースを問い直しているから。

前にツイッターでつぶやいた気もしますが、この先生の新書『ミシェル・フーコー』も、かなりお勧めです。

********
「連帯」なんて、なんだか照れくさい言葉な気がする。

れんたいしましょう、仲良くしましょう、力を合わせて……
そんなことをイメージしてしまうと、ちょっとオモイ。

私も、そんな重苦しさを抱えながら、時に憂鬱さに襲われながら、勉強をしていた。

だが、だんだんと考えが変わってきた。

「れんたい」とやらは、人が生きている以上、社会の中にふわふわと当たり前に存在しているものなのではないか。

ようやく、付き合い方がわかってきた概念かもしれない。

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本を読んで、もっと明確にサクっとまとめられたら、かっこいいんだけど。
ひとまずぼやき程度だけど、書いておくことにします。
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