俗なことは嫌いと俗っぽく言ってみる
思っていることを活字にすることでなにかが変わるんじゃないかと期待を込めて書いてみたり時にただの愚痴だったりするブログ。
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「社会」について考える。
社会とは、「みんなが関係する領域」のこと、だと思う。


夫婦仲が悪くなっちゃったら、「夫婦問題」

政治の世界の党派争いは、「政治の問題」

企業内で社員を挙げていろいろ仕事の効率を上げなきゃならなくなったら、それは「企業の問題」


では、「社会問題」は? ・・・それは、具体的に誰が「対処するべき/対処できる」と決まってなくて、みんなで考えて取り組んでいかねばならない問題のこと。



でも、夫婦の問題も政治の問題も企業の問題も、時に「社会問題」として語られる。


それはたぶん、こういうことでは。(以下すごく大雑把な見方。)

もとは各々夫婦の問題だった「セックスレス」が、累積して「社会問題」として認知されるのは、
セックスレスを引き起こす背景となっている社会環境(働き過ぎ…とか)自体に目がゆくようになって、こちらは「社会全体(=みんな)」で考えていかねばならないよね、となったから。

もとは政治の世界から発生した「天下り」が、「社会問題」となったのは、
天下りした人がわたしたち税金から不当に巨額の給料を得て「わたしたちの税金の無駄づかい」の問題に発展したりとか、まっとうに頑張った人がきちんとした職に就けるという、私たちの社会全体の秩序を守るルールに反することで、私たちが信じている「社会のルール」を破ったから。

企業の「粉飾決済」が「社会問題」になるのは、
これもわたしたちの社会の秩序を保つための「会計情報はきちんと公開する」というルールを破ることになったり、粉飾決済を取り締まれなかったチェック機能の不在が問題視されるようになったから。


つまり、個々のセクター(組織など。フォーマルなのもインフォーマルなのも含め。)で対処しきれず、もっと広くみんなで対応せねばならなくなった段階で、個々のセクターの問題から「社会問題」と認知される。


いくらでも例は挙げられる。

例えば障害者の就労。
今までは個々の障害者(と、その家族)の問題として、「仕事ないんだからしょーがない」となってきたものを、

「障害者でもちゃんと就労したい!」と訴えかけてゆくことで、「実は障害者が就労できない社会が悪いのでは。そんな社会は私たちが変えてゆかねばならないのでは」との気づきが広まり、「社会問題」として認知されてゆく。


また、最近はやりの「社会的企業」の「社会的ってなんだ?」といえば、

今までビジネスの世界でも政府・行政でも対処しきれなかった、「社会的」な領域での問題に、「企業」という事業体で、しかも継続的に、取り組む組織、のことと考えればいいのでは。


普通の「起業家」と「社会起業家」ってなに!?という疑問も、よく聞くけど、
これも同様に、今までビジネスの対象として考えられていなかった領域の中でも、とりわけ「みんなで考えていかねばならないと思っていたこと」(=社会領域。一定の公共性がある。)に切り込んで、事業として解決する道を確立した人、ではないかな。



もっとも、「社会」とそうでないものの区別なんて、非常に曖昧だし流動的だけど、

でも私が重要だと思うのは、「社会セクター」やら「社会的な領域」やらというものも世の中にはあるだろう、あってもいいだろうということ。


企業に就職して働くだけでなくても、この「社会領域」に着目して生きてゆく人がいてもいいだろうし、
政策も経済政策ばかりでなく「社会」を充実させてゆく視点もあってもいいだろう。


この「社会」に対する視点が、おそらく欧米と日本とではちょっと違うので、社会的企業なんかを勉強していても、色々ピンとこなかったりそのまま適用するのは難しいだろうなぁと思うことが多々あるなぁ・・・なんてことを考える今日この頃。。。


そして修論は進まず!です(笑)
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