俗なことは嫌いと俗っぽく言ってみる
思っていることを活字にすることでなにかが変わるんじゃないかと期待を込めて書いてみたり時にただの愚痴だったりするブログ。
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ラトゥーシュ氏講演会(130524)
(130526 追記)

昨日,セルジュ・ラトゥーシュさんの講演会@日仏会館に行ってきました。
(冒頭から余談だが,終わって会場出たところで,TPP反対デモのお知らせのチラシ配ってた!超適切な行動だと思う!笑)

私が受け取った重要なメッセージは,ようは,(既存の)経済(学)の枠具みだけで考えるのやめましょ,ということだった。

ラトゥーシュさんの言う「デクロワッサンス」は,日本語訳としては中野氏の試行錯誤の結果,「脱成長」と訳されている。

けれど,勘違いしてはいけないのは,単に「成長やめましょ」という意味での「脱成長」という言葉の土台には,成長を前提とした社会が存在していること。また成長をやめて,じゃあどうやって生きるの
となった時の,オルタナティブな姿が(少なくともこのタームからは)見えてこないという欠点がある,という点である。
(その他,「人間の為の経済」とか「持続可能な経済成長」というタームも,結局経済成長を土台とした議論だと,中野氏は指摘している。)
デクロワッサンスには,そもそも,経済枠組みによる思考や生き方を『脱して』,『落ち着いて,気楽に,活動のペースを落としてリラックスした人間』であろうとする意味合いまでも,示すということである。

(※以上,ラトゥーシュの新訳書『<脱成長>は,世界を変えられるか?』のp.78~。ここでは,デクロワッサンスを英語また日本語に訳す際の困難について,わざわざ補論が設けられている。また自身の思索が単純化して人々に理解されることへの危機感も,別の個所(訳者解説)に書かれている。まさにまさに。なので私がここで書いてるのも,あくまで「私が個人的に重要だと受け取ったメッセージ」についてと,そこから私が考えたことである。)


我々の日々の行動・生き方は,驚くほど,いわゆる「市場経済」の枠組みに捕らわれている。

石器時代の人々が,生き抜く為に自然ともしくは必然的に,狩りの技法を学び時に危険にさらされながらも生きるために狩りをしていたように,
現代の人々も,今の経済社会で生き抜く為に,パソコンスキルを上げて会社の効率的な生産に貢献できる人材を目指し,経済活動が効率的に動く為に最低限人と人とが不快に思うことなく一緒に仕事をできるような「コミュニケーション能力」とやらの習得にいそしむ。

そして経済学はもはや,社会における経済のあり方を問い直し,ひいては人間の生き方を見直す学問ではなく,既にある経済社会をどのように分析し,その枠具みでいかにうまいこと生きて行くのかを考える学問になっているように思う。
(いや経済学といっても多様で,心強い問い直しの波もかなり存在するが,少なくとも大学での経済学教育は未だ,単純化された経済モデルをあたかもそれだけが社会の真実であるかのように,教え込んでいるように感じる。)


もちろん市場経済の発展により恩恵もあった。
ある程度の富が充実し,機械化が進む中で,奴隷は減ったのかもしれない。(もっとも,現代社会は「資本主義の奴隷」になっている)
洗濯機の発明により,女性は家事労働から解放された。

同じ人間なのに,『貴族』『庶民』に分断されて,その中で勝手に役割分担をされ,必死に働く人と富を享受する人に分けられていたが,
市場経済の発展により,人間一人一人がある程度の「富」を,少しずつ持つようになり(もちろんその中でも格差はある),一人一人に「生存権」「社会権」が(まだ不十分とも言われるが)与えられた。

ちょっと冷たく考えれば,もしかしたら「貴族」「庶民」のように強制的に社会の中での(特に経済活動における)役割分担をされ,社会をまわす方が社会の仕組みとしてはシンプルだったのかもしれない。
(もちろん虐げられている人の気持ちを考えれば・・・つらいこと)

現代のように,少なくとも前提として,一人一人が対等平等で,人間らしく生きる権利があるといったら,そりゃ個々人の権利とかやりたいことがぶつかり合って,社会全体の調整は大変になる。

でも,だからこそ発明され,昨今さらにさらに重要性が増しているのが,民主主義システムとか,公共圏という考え方なのだ!!!


民主主義システムを形骸化させたくないし,「公共」をもっと真剣に考え,根付くように努力していかねばならない。



ラトゥーシュのいう脱成長の生き方を支持するか,消費社会での生き方を支持するかは,我々の選択の問題である。


が,なによりもまずは,このように「経済社会」を相対化する視点,そういった視点を知るチャンスが,今の社会にはなさすぎる!!!


「子ども頃から経済学教育を…」という話があるが,それはあくまで,現在の経済社会の中でどのように生き延びるか…例えば,株の仕組みとか,保険には入っておきましょうね,といったことである。
ヘドが出る。

小学校からの英語教育は着実に進んでいる。でも,その理由が,「グローバルに活躍できる人材を養成するため」???
これって,結局,「グローバルな市場経済で生き延びる事ができる人材を養成するため」と言っているように聞こえる。

また早期の英語教育に対して,「いや,日本の伝統も大事だ」という人びともいるが,そういった人々の発言も,現代の経済社会・グローバル市場に意義を唱えた上で,
日本に根付くそれこそ「デクロワッサンス」な生き方を主張するまでの深みを感じないことが多々ある。
(まぁそういった人々の主張を,よく知らないで書いているので誤解も多聞にあると思う。もしかしたら同じことを考えていても,語彙が異なるので気づいていないだけかも。
でもなんだか,私も一応,長唄や長唄をやっている人の伝統的なコミュニティの中で,日本っぽい思想・考え方を感じてきたので,ファッション的に「日本文化」を主張する人には,辟易する。)



もちろん英語はツールで,この「脱成長」のような,諸外国の多様な考え方を身につける際の大きな武器になる。それをわかって手に入れる武器ならば,よい。
しかし英語教育を進めようとしている大きなうねりの背景には,やはり「グローバル市場経済」が横たわっている気がする。

だいたい,なんで英語『だけ』特別扱いなんだ。英語が世界の公用語になっている事実はある。でも,その背景には…?
それに冒頭で述べたように,「デクロワッサンス(脱成長)」のように英語の発想では限界のある考え方が,世界にはたくさんある。私が遅ればせながら,フランス語を学んでいる理由は,論文を書く為というよりも,フランス語を通しての思考が新鮮で仕方がないからだ。)



・・・もっと書くべきこともあるのだが,時間切れ。
以上,非常に雑多なメモでこんなところに書くのは恥ずかしい気もしたが,自分の覚書として,またぶつけどころのない鬱憤のようなものの記録として。



かくいう私も,最近はどうも,市場経済を基盤とした競争の中で日々研究をしている(させられている)ような感覚があって,非常に居心地が悪い。
忙しくても充実している…という感じではない。単に見えない敵に追われている感じ。なんだか体調も良くない。

そろそろ自分の感性を取り戻さなくてはバランスを崩しそう。このあたりのことについてはまた今度まとめておきたい。一大学院生の生活から見た現代社会の一側面を。
もちろん告発だけでは物足りないけど,なにかを相対的に考えるためのレッスンとして。




(*追記。英語教育と日本文化について。)

そもそも,文化と経済活動を分けて語る考え方に,ここでは異議申し立てをしたい。文化,人々の生活の仕方と,経済活動の在り方は,不可分である。

英語教育=主にグローバル市場に対応する為の手段,だとしたら,その対になる形で安易に日本文化を語るということは,経済と文化を分ける見方を助長しているように見える。



私がここで「ファッション的に日本文化を主張する人」と書いたのは,適切な表現ではなかったかもしれないが,年頭にあったのは,「英語教育は大事ですが,日本文化教育も大事ですね」と,わざわざ日本文化を持ち出して語ることが,前者を肯定する為の道具(excuse)になっている気がすること。

海外の事だけでなく,日本の事もちゃんと見てますよ~~と,自身の視野の広さとか寛容さを表明する為に,「日本文化」というタームがもちいられている気がするということ。(※こういった言葉の使い方や文脈全般を指して,『ファッション』と呼んでいる。)
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